■入院第1日(手術日)ぼくが今回受ける手術は内性器摘出術。産婦人科の領域の手術である。
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■入院第2日 痛みはひどくはないが少しでも腹筋に力を入れると縫い合わせた術創が弾けてしまうのではないかという恐怖心が先立って、身動ぎもできない。
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■入院第3日 窓外が薄く明るくなってきた頃に、朝一番の検温と血圧測定のために看護師がやってくる。
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■入院第4日 朝一番の検温では「No fever」(熱はないよ)ということだったので、風邪はひどくはないのだろう。
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■入院第5日(退院)この日の朝食から食事がやっと洋食になる。
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■バンコク第1日 ぴっしりとしたシーツが張られたダブルベッドで6時間眠って、眼が覚めた。シーツの肌ざわりが心地よく、とても贅沢な気分だ。
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■バンコク第2日 朝から実にいい天気だ。そう言えば今日は土曜日、週末が好天でタイの人もよい休日が過ごせるだろう。
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■バンコク第3日 そろそろ土産ものを揃えておいた方がよいか、と目覚め際に考える。
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■バンコク第4日(抜糸)ホテルの朝食を摂って、少しくつろいでから病院へ。
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■バンコク第5日 疲れがたまってきているのか、寝覚めがよくない。身体が怠いから「伸び」をしたいが、術創が開きそうだし痛みもあるので、できない。
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■バンコク第6日 ホテルでの生活にも慣れてしまって、マンネリ化を感じはじめる。
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■バンコク第7日 昼近くまで何をするでもなく横になっていた。
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■帰国の日 早めに就寝したら早めに眼が覚めた。
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■帰国した後 渡航中の記事で何度か述べているが、ぼくは帰国の日の翌々日に或るアーティストのライヴに参加している。
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入院第1日(手術日)
ぼくが今回受ける手術は内性器摘出術。産婦人科の領域の手術である。だからガイドのミドリさんにヤンヒー病院へ連れて行って貰ったときには産婦人科の待合で診察してくれるのを待っていたのだけど、ほとんど視線を感じない。ぼくと同じ目的の同じ手術を受ける人は、こちらではめずらしくもないのかもしれない。日本で産婦人科の待合にすわっているとじろじろ見られてしまうところだ。
診察室に入ると担当医師から簡単な問診がある。ミドリさんが一緒に診察室に入って日本語に通訳してくれるので受け答えは楽。そして触診。それ等の検査を受けて異常がなければそのまま入院する病室へと案内される。そのときに、午後2時に手術室に入ると告げられた。
案内された病室は地上8階、1839号室。広い部屋だった。ベッドのほかに応接セットと冷蔵庫とクローゼット、TVがある。部屋の奥には別室に繋がる扉があり、そこはトイレ兼シャワールームだ(ユニットバスとは少し違う)。ベッドが医療用のものでなければホテルと見紛う立派な部屋だ。
荷物をクローゼットに片付けて、貴重品は病院に預けるように指示がある。旅券と現金、航空券、自宅の鍵、MP3プレイヤを預ける。MP3プレイヤは入院中に使うつもりだったが病院の職員女史が「これは貴重品として預けなさい」という素振りを見せていたのでそれに従った。腕時計と携帯電話も持って行かれそうになったがそれは何とか拒んだ。
病院内での会話はすべて英語。タイ語が喋れるならそれがベストだが、看護師をはじめとする病院の職員はみな流暢に英語を話す。中学校卒業程度の英語が話せれば平時は充分である。
荷物の整理ができたら入院着に着替えるように言われる。着替え終わったところで時間は正午。ベッドに横になるように指示され、そのようにすると直ぐに剃毛がはじまる。看護師ふたり掛かりでへその辺りから尻の方まで丁寧に剃ってくれる。
剃り終わるとシャワールームで洗浄するように言われる。見事につるつるになった自分に驚く。
その後は白いカプレットをひとつ服むように指示があっただけで、ベッドに横になったまま時間を待つ。午後1時半頃にストレッチャーがやってきて、そちらに移動する。ストレッチャーに乗せられて院内を移動。
辿り着いた部屋の扉の上には「OPERATION ROOM」と書かれている。ストレッチャーはその手前で止まって、白衣を着た小柄な女性が現れた。その女性がやたら元気に「Can
you speak Thai?」と訊ねてくるのでぼくはおずおずと「No」と答えた。
あとで聞いたのだが、この女性は麻酔医だったらしい。にこやかに接してくれるので少し緊張が緩んだ。
手術室には音楽が流れていた。歌詞がない、環境音楽のような曲。手術灯の真下に運ばれ、両腕を真横に伸ばして固定される。少し緊張してくるのが自分で判って、巧く麻酔が効くだろうかと少し不安になる。
しかし、入院着の前をはだけられて、心電図の電極がぺたぺたと貼り付けられたところまでは憶えているが、それを限りにそれ以降の記憶はまったくない。すっかり眠ってしまっていたぼくは麻酔医女史に肩を揺すって起こされた。
下腹に鈍い痛みがある。呻くほどではないが「痛み」だと認識するだけの感覚だ。手術が終わったのだと思った。ぼくは麻酔医女史に開口一番に訊ねた。
「What time is it now?」
「5 o'clock 10 minute PM」
直ぐに答えが返ってきた。午後2時に手術室に入ったから、手術は3時間弱で済んだのだと判ったと同時に、日本でよく言われている「掘った芋いじるな」はほんとうに通じるのだということも判った。
目覚めたのは手術室の隣り、処置室のような場所だった。ぼくはそこから病室へとストレッチャーで運ばれた。ストレッチャーからベッドに移るのにぼくは身体をまったく動かせなくて、重い身体を3人掛かりで引き摺って貰った。
病室に戻ると直ぐに点滴の針が打たれた。
点滴は2種類。一方は「ペインフリー」と呼ばれる、術後の痛みを軽減する麻酔。痛いのは厭だからぼくは予め御願いしておいた。
術創は鈍く地味に痛み続けたが、午後9時頃にはペインフリーが効きはじめてさほどでもなくなった。ただ、腹筋に力を入れることが一切できないので、枕から頭をもたげることすらできない。看護師もそれが判っているのだろう。何も言わなくてもベッドの背を起こして脚も少し上げて楽な姿勢を取らせてくれる。
タイでは衛星放送で海外向けのNHKの放送を見ることができる。看護師がTVを点けてそのチャンネルに合わせてくれた。TVを点けっ放して一ト晩を過ごした。
1時間おきくらいの間隔で看護師や麻酔医女史が入れ替わり立ち替わりやってきて「Do you have pain?」と訊いてくれる。看護師の半数は「イタイ?」という訊ね方もする。看護師は誰も日本語は話せないが「イタイ」という単語だけは知っているようだ。但し、名詞として認識しているらしく「Do
you have イタイ?」とよく訊かれた。
とにかく誰かしら頻繁に病室に来てくれる。日本の病院だと看護師の絶対数が少なくて、呼ばないと先ず来てくれない。呼んでも来てくれないことさえある。
このときはまだ水を飲んではいけなくて、だけど口の中がくっついて開かなくなりそうに乾いていて、ぼくは看護師が来てくれるたびに「I want to
wash my mouth」と訴えた。「うがいをしたい」は英語ではこう言わないが、ぼくは正しい表現を知らないのでこれで通した。ちゃんと通じる。
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入院第2日
痛みはひどくはないが少しでも腹筋に力を入れると縫い合わせた術創が弾けてしまうのではないかという恐怖心が先立って、身動ぎもできない。枕の上で首を左右に転がすだけが精一杯。
そんな中、朝早くから看護師ふたりが清拭してくれる。固く絞ったタオルで全身を拭ってくれて、パウダーを塗ってくれる。身体を動かせないからベッドにぐったりしたままで。排尿用チューブが刺さっている局所もきちんと浄めてくれる。新しい入院着に着替えさせてもくれた。
清拭と着替えを終えてさっぱりした後に医師がやってきて、ガーゼの上から術創を触診。腫れた腹を指先で何度か押してから「You can drink
water, a little」と言い残してさっさと行ってしまう。

このときはじめて、ぼくは手術部位を見た。厚手のガーゼを当てて、透明の粘着シートで覆ってある。腹に巻いてあるゴム紐とそこから出ているフックは生理用ナプキンを固定するためのもの。
医療用なのかタイの標準的なものなのかは知らないが、このとき使っていたナプキンは、日本の「夜用」くらいの大きさと厚さのものの両端に輪っかになった紐が付いていて、その輪っかを身体の前後にあるフックに引っ掛けて固定する、という着け方をするものだった。
子宮がなくなったので生理にはならないが、切った後の「残りもの」(血や組織)が膣口から排出されることがあるのでナプキンを着けている。
医師と一緒に来ていた看護師が早速ミネラルウォーターを開けて飲ませてくれた。身体を動かせないから、コップを口許まで持ってきてくれる。
コップには「曲がるストロー」が立っている。横臥姿勢では飲みづらいからストローを使っているのだと思っていたのだが、そうではないようだ。どうもタイではコップなどの器に直接口を付けるということをしない習慣らしい。
回診の直ぐ後くらいに、別の看護師がやってきてビニール袋を見せてくれた。口をしばってあって、アルコールだか水だか判らないが透明の液体が入っていて、血色のいい内臓が浸かっている。
「これ、あなたの」
摘出した子宮と卵巣を見せてくれている訳である。
写真を撮っておきたかった。自分の内臓を眼にする機会など滅多にない。しかし「写真を撮りたい」と咄嗟に言うことができず、このときに限って携帯電話が手に届く場所になかった。
この日は1日中短い周期で微睡んだり目覚めたりを繰り返していた。浅い眠りのときによく溝に足を突っ込んでしまったような、衝撃というか痙攣というか、そんなものに襲われることがあるが、それが眠るたびにあった。それ自体は何ら怖いことはないのだが、身体がびくんと動くたびに腹筋が力むのだ。それが怖い。
午後にはバンコク滞在中の坂田社長がミドリさんと一緒に病室を訪問してくれる。坂田社長はたびたびバンコクを訪れ、そのたびに入院している顧客を見舞っていて、多くの例を知っている。入院2日めのぼくを見て「2日めにしては顔色がよい。とても元気だ」と言った。
確かに術創の痛みもほとんどなく、じっとしているだけなら何もつらくはない。
しかし坂田社長たちが退室した後、夕方辺りから下腹部が張るような鈍い痛みを感じはじめる。傷の痛みとは違う痛みだ。腹の奥がふくれて張り詰めていて、それが鈍い疼痛に繋がっている。傷よりも低い位置だ。これは丁度、限界まで排尿を我慢したときの感覚にそっくりだ。しかし、手術当日から尿道にはチューブが通されていて、小便がたまることはないはずである。
暫くは我慢してみた。だが次第に我慢が効かなくなってくる。取り返しがつかなくなる前に看護師に訴えた方がよい。ぼくは何とか拙い英語で伝えようと、様子を見に来てくれた看護師に話し掛けた。
だが、なかなか伝わらない。こんな複雑な内容を咄嗟に英語で言えるくらいなら、ぼくはいま頃通訳の仕事でもしていたはずだ。ぼくも困ったが看護師もとても困った顔をしていて、気の毒になってくる。
こういうときのために、アクアビューティは予めミドリさんの携帯電話番号を教えてくれている。ぼくは看護師に電話を掛けてくれるように頼んだ。繋がったところで受話器を貰いミドリさんに日本語で症状を訴えて、それをミドリさんから看護師にタイ語で伝えて貰う。それに対する回答をミドリさんに聞いて貰い、電話越しに日本語で教えて貰う。何て面倒な。言葉が通じないとこういう困ったことになる。
ミドリさんを通して聞いた看護師からの回答は次の通り。
チューブを通しているから尿がたまって膀胱が張ることはないはずだ。子宮と卵巣を摘出したために腸がよく動くので、そのためにガスがたまることがある。腹の張りはそのせいだろう。それを解消するためには同じ姿勢でじっとしているよりは寝返りを打つように。
……違う。これは屁がたまっている感覚ではない。そうは思ったが一ト通りの回答を伝えて直ぐに電話を切れてしまったし、看護師も病室を出て行ってしまった。
少々怖いが言われた通り寝返りを打ってみようと、のろのろと身体の向きを変えようと動き出した。やっと身体の半分をベッドから浮かせたところで、先刻の看護師が再びやってきた。直ぐに排尿チューブを確認してくれる。
被っていたタオルケットをはいで見てみたところ、排尿チューブが折れ曲がって尿が滞っていた。折れた部分を看護師が伸ばすと、その途端に張った腹の苦しさがすうっと抜けて一遍に楽になる。
痛み止めの点滴はして貰っているけれど、それだけでは解消されない痛みも起こり得るのだという見本のようなできごとだった。言いたいことを言いたいように言えずに伝えられない苦痛もこの辺りから感じはじめる。
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入院第3日
窓外が薄く明るくなってきた頃に、朝一番の検温と血圧測定のために看護師がやってくる。
体温は水銀体温計を使って舌下で測る。看護師が差し出してくれるので口で受け取る。検温の時間を利用して血圧を測定。1日に4回、4時間ごとに体温と血圧を測ってくれる。
体温を確認した後の体温計は水洗いして枕許のサイドテーブルに置いてくれる。アルコール消毒をしている様子は微塵もない。これを「不潔」と感じる人は日本を出てはいけない。タイという国が不衛生なのではなく、日本人が潔癖すぎるのだ。
さて、今日は検温に引き続いて別の看護師がやってきて、やにわに点滴を外してくれる。そして速いペースで呼吸するようにとぼくに指示をくれて、そのようにすると一気にぼくの身体から排尿用チューブを引き抜いた。
尿バッグの始末をしてしまうと看護師は「今日から何を食べてもよい」と言った。昨日は「水を少しなら」だったのに急に「何でも」か。それだけでなく、大きな声でにこやかに看護師はこうも言った。
「Today, try to walk!」
歩いてみなさいだって? 一昨日に腹を切ったばっかりだぞ。
術後はできるだけ歩くようにとは渡航前から聞いていたけれど、実際に歩くのはやっぱり怖い。ベッドから降りるのさえ。しかし、排尿チューブを外されてしまったからには、トイレにも自力で行かなくてはならない。
……まあ、後でね。
先延ばしにして、ぼくはベッドから動かなかった。点けっ放しのTVをぼんやり見ていると、食事が運ばれてきた。それは御粥だったのだが、全粥だ。しかも器が大きくて量が多い。手術日とその翌日のまる2日間は絶食だったというのに。絶食後の食事は、日本なら先ず重湯か三分粥辺りからしか喰わせてくれない。
急に沢山喰ったら腹が吃驚するだろうな。そう思いながらも完食した。食事を終えた途端に腹の中がぐるぐると音を立てて活発に動き出す。腸が動いているのが自分でよく判るのだ。「動いている」と言うよりは「のたうっている」という感じ。術創が開いてしまうのではないかと思うほどの勢い。痛いくらいだ。
食後暫くしてから医師の回診があった。ベッドの傍まで来て「飯は喰えたか」と訊かれる。全部喰ったと答えると、「よろしい」と頷いて医師は患部は見ないでそのまま出て行った。
その後直ぐに尿意を覚えたのでおそるおそるベッドを降りた。ムムムと言うほど、簡単にはいかない。
一旦横向きにゆるゆると寝返りを打って、ベッドに手をついてそっと身体を起こして、それから身体の向きを変えてベッドから足を下ろして、ゆっくり床に足をつけて、じわじわと体重を移動して、術創を手で圧迫しながら(こうすると痛みが少ない)両足で立つ。このすべてを腹筋が力まないようにしなくてはならない。ひどく時間が掛かるし気も遣う。
足を引き摺るようにして1歩ずつをじわりじわりと進む。日常生活の中では気付きもしないことだが、床から足を僅かに浮かせるだけでも腹筋には力が入ってしまう。痛みよりも、怖さの方が強い。勿論、痛いから怖いのだけど。ベッドから見えている扉に近付くのに随分時間が掛かった。
トイレは洋式。腰掛ければいいのだが、腰を下ろすときにはやや前屈みにならなくてはならない。この姿勢が案外腹筋に力が掛かる。両手で術創を押さえてそっと腰を下ろす。すわっただけでほっとしてしまう。目的はまだ果たされていないのに。
排尿するためには僅かながら力まなければならない。それが不安だったが、思うより楽に出て行ってくれた。さて、同じ手順を逆転させてベッドに戻らなければ。
昼食後に眠くなったので少しうとうとと眠った。眠りが途切れた頃にミドリさんが病室を覗きに来てくれる。やはり「歩くように」と言う。そして、ぼくの病室がある8階ロビーにはインターネットブースがあって、30分間につき20バーツ(約60円)で利用できると教えてくれた。連れて行ってほしいと申し出て、場所を教えて貰う。術後はじめて病室を出た。
のそりのそりと通路を歩く。改めて見ると、この病院はとてもきれいだ。新しい建物だし清潔感もある。
この病院だけなのかタイではこれが普通なのか判らないが、詰所というものがない。その代わりにサービスカウンタのようなものがあって、病室を巡回していない看護師はそこに待機している。そのカウンタの前にインターネットブースはあった。「24h
OK」と書いてある。24時間いつでも利用できるということだ。
病室に戻ってからやってきた看護師が清拭をしてくれた。後で知ったが、この病院では毎日午前と午後にそれぞれ1回ずつ清拭をするか訊いてくれる。毎回すると言ってもいいし、断ってもいい。これも日本の病院では先ずないこと。清拭なんて2〜3日に1回して貰えればいいところだ。
清拭が終わると夕食前に服む薬を持った看護師がやってきて、その後には食事が来る。食事の後には食後に服む薬を持ってまた看護師が来て、もう少しすると体温計と血圧計を持った看護師が来る。その後には夕食が控えている。病院の1日は結構日程が詰まっていて、それほど退屈でもない。
夕食後に通訳女史が来てくれた。食事の喉の通りがよくなかったので食事内容を変えて貰えるように頼む。それから、この病院に来てからぼくは術式や投薬の内容についての説明を1回も受けていないから詳細を教えて貰えるように言って貰えないかと申し出ると、回診のときに同席するようにするとは言ってくれた。しかしこれは退院まで果たされることがなかった。
要らないものは取って貰えたし切った痕も回復してきているし、まあいいか。
こう思えない人はこの病院での治療はやめておいた方がいいだろう。
固形物を食べたら、数時間後には固形物を出さなくてはならない。いよいよ催して、ぼくはトイレに向かった。どれほどよい状態のものを出すときにも、少しは腹筋に力を入れなければならない。果たしてできるのか。排尿よりも更に不安である。
力んだら縫い合わせた傷が「ぶち」と音を立てて弾けそうな気がしてならない。術創を両手で押さえながらおそるおそる力んでみる。健康なら意識せずにできることなのに、無闇に緊張する。
少しだけ出せた。腹の中にまだ残っているようだが、これでよしとしておく。
夜半から喉が痛みはじめ、痰が絡むようになる。風邪気味か。痰を切ろうとするだけでも腹筋に力が入って術創が痛む。咳など以てのほか。だが喉の痛みと痰に伴って咳が何度も容赦なく出そうになって身体一杯に痙攣する。そのたびに腹を押さえて怖い思いをする。
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入院第4日
朝一番の検温では「No fever」(熱はないよ)ということだったので、風邪はひどくはないのだろう。でも「喉が痛い」と看護師に言っておいた。ほんとうは「痛い」のではなく「いがらっぽい」のだが、それを英語で何と言うのかぼくは知らない。後からやってきた別の看護師が「喉の痛みは2日経ったら治る」と言った。処置は何もして貰えず。確かに2日後には治っていた。
それほどしんどいつもりもないが、朝食は粥でさえ喉を通りづらかった。
1日の日程で言えば、朝食の次には清拭が行なわれる。看護師が急勝だったのか何かの都合でそうなったのか、朝食が運ばれて間もなく入院着を持った看護師が入ってきた。
彼女は早口の英語で何ごとか食事中のぼくに言ったが、ぼくは英語を聞き取るのが巧くない上にそんなに早く喋られても頭の中で日本語に変換するまでは意味が判らない。だから返事はいつも一拍遅れる。
それが焦れったかったのかこの日は特に機嫌が悪かったのか、彼女はもう1回同じ内容を喋って、手でベッドの柵を叩きながらきつい口調でこう付け加えた。
「Understand me ?!」
それはやけにはっきりと聞き取れて、ぼくはそんなに怒らなくてもいいじゃないか、と思ったがそれを直ぐに英語に直せるほどぼくは巧く喋れないし、もし喋れたとしても言う隙もないくらいに彼女はさっさと出て行ってしまった。
「食事が終わったらナースコールを鳴らせ」と言っていたから、取り敢えずは食事を済ませようとしたが、喉が詰まるような感じがして碌に喰えなかった。
改めてナースコールを鳴らすと別の看護師がひとりでやってきて清拭とシーツ交換をしてくれた。呼び出してひとりでやって貰ったのがとても申し訳ない気がして、ぼくは何度も有難うを言った。
この病院に入ってから、ぼくは「自分の言葉」を話していないように思う。先刻の「有難う」も、ほんとうにそう思ったからそう言ったのだけど、気持ちが入っていないように自分で思える。随分魂のない言葉を沢山吐いたと、悲しくなった。話したことと言えば看護師たちの質問への答えだけなのだけど、「型通り」の言葉しか口にしていない。
巧く聞き取ることも話すこともできないために、話し掛けることや話し掛けられることが億劫になってきている。よくない。非常によくない。持病の鬱病が顔を出しはじめている。
昼食が運ばれてくるが空腹感も食欲もなく、喉が締まるような感じがして喰う気にならない。それでも喰わなければならないと思い、きっちりと被せられたラップに手を掛けてはみるが、それを剥がないうちから漂ってくる匂いだけで気分が悪くなってしまう。
昨日通訳女史に洋食に変えて貰えるように頼んだが、運ばれてきたのはタイ食。洋食なら多少は喰えたのだろうかと、皿を眺めながらぼんやり考えた。
もう直ぐ。
もう直ぐ退院できる。ホテルに着いたらコンビニエンスストアに行こう。流動食タイプのバランス栄養食でもあればそれを買って流し込んで何とか栄養を摂ろう。何も喰わないよりはずっとましなはずだ。ベッドに横になって迎えを待った。ミドリさんが迎えに来てくれるはずだった。
午後に差し掛かる頃に看護師が来て、間もなく病室に備えつけられている電話が鳴った。看護師が受話器を取って、直ぐにぼくに差し出した。どうやらぼく宛ての電話を外線で受けていて、こちらにまわすために彼女は来てくれたようだ。受話器を受け取るとミドリさんの声が聞こえた。
「退院は明日です。今日は医師がいないので」
そうですか、と言うしかない。自分の身体が一気に重くなったような気がした。
取り次いでくれた看護師に礼を言って、ぼくはベッドにぐったりと沈んだ。あと1日、この病院にいることを我慢しなければならない。だが「明日退院」と確かに聞いた。24時間後には迎えに来てくれるということだ。時計の針が2周すれば。壁に掛けられた時計を見る。
夕食。とにかく喰わなければ身体が保たない。身体が弱れば気持ちも必然的に弱ってしまう。白粥に手を付ける。旨いと思った。いままで喰ったものの中で一番旨い。……もしかすると食事があまり旨くないのは「タイ食だから」ではなく「病院食だから」なのか?
粥を腹に収めてしまうと、乱れていた気持ちが幾らか落ち着いた。
喰えてよかったと思いつつTVを眺める。そこに通訳女史がやってきて、同じ病棟にFTMがいるから会いに行かないかと誘ってくれた。ぜひにと案内を御願いする。
人並みの速度ではまだ歩けず、通訳女史に時折立ち止まって貰いながら連れて行って貰った。それでも足を交互に踏み出すのがスムーズになったものだ。昨日は1歩ずつを「よいしょ」と、まるで大昔のロボットのように踏み出さなくてはならなかった。
辿り着いた部屋にいたのは25歳のFTMくん。背を起こしたベッドで休んでいる。乳房切除のみを受けたとのこと。胸からドレーンが出ていてベッド傍のプラスチック製の瓶に繋がっていた。訊くと、昨日手術を受けたばかりなのだそうだ。
自力で身体を動かすのは難しいようだが表情は至って元気。訪ねてきた看護師にちょっかいを出すくらいだから、身体を切ったダメージもそれほどでもないのだろう。ぼくが手術の翌々日には歩く練習をはじめ、3日後のいま遠くの病室から歩いてきたという話をすると「俺も歩く」と言い出した。看護師に補助して貰ったものの、流石に傷が痛かったらしく断念したけれど。
ぼくはタイ到着翌日に入院して直ぐに手術を受けたが、彼は入院前にバンコク市街に出て少し遊んだという話をしてくれた。そこで現地の女の子をナンパしてホテルに「お持ち帰り」したのだという。これが若さか、と旧いアニメーションの台詞のようなことを思った。
30分ほど話してお暇する。手術日から1日しか経っていないのだから、あまり長話して疲れさせてはいけない。通訳女史に言って退室させて貰った。
同じ国から同じ目的を持って同じ病院にやってきた人と話すのはやはり興味深く、気分が昂揚する。日中はだいぶぐったりしていたけれど、気分よく夜を過ごせた。
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入院第5日(退院)
この日の朝食から食事がやっと洋食になる。トーストは日本で言うサンドイッチ用の食パンを焼いたものだった。大きさも厚さもそんな感じ。耳は付いている。後で知ることだが、タイの食パンはこのサイズが普通らしい。
大きい器にはスープが入っている。できるだけ喰って身体を回復させたいが、半分で断念。トーストと牛乳は平らげる。牛乳はパッケージに「MILK」と書いてあるが、小さく「SOYMILK」とも書いてあった。飲んでみると豆乳だった。
食後の薬を持ってきた看護師が話し掛けてきたので、少ない語彙を総動員して拙いなりに答えようとしたが、ぼくが話している途中で聞く気がなくなったのか、看護師は行ってしまった。「一生懸命喋っているんだから聞けよ!」と文句を言いたいが、咄嗟に英語でそう言えるくらいならきっと言わなくてもいいに違いない。
看護師も忙しいのだろうし、時間を掛けても要領を得ない片言しか話せない奴の言うことなど聞いていられないのかもしれないが、そうは思っても、自分の言葉を受け容れて貰えないことは存在そのものを無視されてしまったようで、精神面が余計に参ってくる。
午前の清拭を断って回診を待つ。軽快な足取りで医師は現れた。術後はじめて術創を覆っているガーゼを外す。粘着シートが勢いよく剥がされる。痛くはなかったが、少しだけかぶれていた。
患部を見て触診した後、医師は言った。
「傷は大丈夫」
「ガーゼを交換したら、退院してホテルに戻ってよい」
「ガーゼを交換したら、シャワーを浴びてもよい」
長身で理知的な顔立ちの医師は、ゆっくりと明瞭な発音で、しかも短く区切って単文で話してくれるので、英語でもぼくにもよく判る。ほかの人もこの医師のように話してくれればいいのに、と思う。
言うだけ言うと医師はまた軽快な足取りで出て行った。残った看護師がふたり掛かりで術創をアルコールで拭った後に薬を塗って、もう一度ガーゼを当てて粘着シートで覆う処置をする。

剃毛した部分に発毛がある。その上にぺったりと粘着シートが貼られて、次に剥がすときにはきっと痛い思いをしなければならないのだろうなと、少し憂鬱になる。
シートはナイロンのような材質で、濡れても水を弾く。石鹸をつけたりごしごし擦ったりしなければ大丈夫だと、後でミドリさんが教えてくれた。
「あなたは今日、退院だね?」
立ち去り際に看護師がそう言ったので答えようとすると、この看護師もぼくを遮るようにこう言って、さっさと行ってしまった。
「通訳の女の子が来るから彼女と話しなさい」
最早やぼくの言葉など望んではいないのだという風な態度だ。ここの看護師はみんな、ぼくと話そうという気をなくしてしまったのか、この言葉の拙さは愛想を尽かされても仕方がないか、と、またも沈む。
「二度と来たくない」とは思わないが「二度と来てはいけない」と思った。「退院して気持ちが回復し自信を取り戻したとしてもここに再び来るべきではない。思い出が愉しいものだけに変わっても勘違いしてはいけない」と記録用の手帳には書きとめてある。
昼食を終えたのは丁度正午だった。ミドリさんが迎えに来てくれるのはもっと後のことだろうとは判ってはいるが、気持ちが逸る。早々と入院着から自前の洋服に着替えて、ベッドではなく応接セットの椅子にすわって待った。
30分ばかり待ったがその間に筋緊張性頭痛と目眩がはじまる。「危険だ」と直感してベッドに横になった。眼を閉じていてもぐるぐるまわっているような感覚がある。頭痛と目眩と、急激な気分降下。持病の鬱病の典型的な症状だ。
呼吸が苦しくなりはじめる。このままでは過呼吸を起こしてしまう。意識してゆっくりと深呼吸を繰り返した。過呼吸と理由のない涙はぼくの鬱病の発作の主症状だ。涙が出はじめたら発作は止めようがない。必死で堪えた。
1時間くらい経った頃に看護師がやってきて、ぼくの荷物を運び出した。ベッドから降りて着いていった。ミドリさんが待つ場所へ連れて行ってくれる。ぼくの荷物は重くて女性に持って貰うのは気が引けたけれど、自分で担ぐのも傷に響きそうで怖くて「自分で持ちます」とは言えなかった。
服用薬を貰って、アクアビューティの自動車でホテルまで送って貰う。
貰った薬は全部で3種類。
ひとつは名前がDIXALIN、抗生物質。術創が化膿しないように服む。20個入り。
ひとつは名前がSOPROXEN、鎮痛消炎剤。10錠入り。
これ等はは食後と就寝前に各1錠ずつ。
もう1種は頓服薬。痛みがひどいときに。名前はSARA。20錠入り。
SARAは解熱鎮痛剤だから熱が出たときにも効く。1回2錠。ぼくは帰国するまで服む必要がなかった。
退院の手続き同様、ホテルのチェックインの手続きもミドリさんがしてくれる。カードキーを貰って与えられた部屋に行く。811号室。ひとりで利用するにはとても広い部屋だ。

一ト通り部屋の中を見てみる。

部屋にはキッチンがあり、調理器具や食器も揃っていて、材料とやる気さえあれば自分で調理もできる。電子レンジと電気ポットもある。ホテルと言うよりはマンション。リビングダイニングキッチンとベッドルーム、ユニットバスで構成されている。1LDK。
コンセントは日本のものとは違う。日本の電化製品を持ってきてもそのままでは使えない。
ホテルに着いたのは午後3時を幾らか過ぎたくらいの時間。まだ屋外は煌々と明るい。だがぼくは疲れ切っていた。
両肩が重く、全身が怠い。空調が効いた病院から外に出るとやはり暑く、直ぐに汗が出た。自動車の座席は硬くて段差に乗り上げるたびにその振動が身体の奥に響いた。走っていた1時間の間、下腹に痛みと恐怖心がずっと続く。緊張した。
荷物の整理は後でいい。リビングの床にふたつの鞄を放り出したままで、ぼくは先ず風呂に入った。昨日も今日も清拭を断ったし今日は随分汗をかいている。
風呂から上がって、リビングのソファにすわった。リビングにはCDプレイヤが置いてある。これを自由に使ってよいとアクアビューティの案内に書いてあったので、ぼくはCDを3枚持ってきていた。すべてプレイヤに放り込んで、自宅では近所迷惑を気にしてできない少し大きな音量で流す。
ソファはやわらかくてすわり心地がとてもよく、王さまになったような気分だった。風呂上がりのさっぱりした状態で空調が効いた部屋のやわらかなソファに身を沈め、好きな音楽を好きな音量で聴く。誰にも邪魔されない。
緊張が次第に解けてゆくのが判った。気持ちがゆったりとしてくる。数時間前には鬱病の発作を起こしそうになっていたことがうそのようだ。1時間ほどそうしていると食事をしようという気になる。喰える、と思った。
立ち寄ったコンビニエンスストアで買ったカップラーメンを少しやわらかめにつくって食べることにする。喰えそうな気はしているが、まだがつがつ食べたい訳ではない。
おそらく日本で喰えるものに近い味だろうものを択んで買ってきたから、弱った身体でも受け付けるだろう。ポットで沸かした湯を入れて待つ。蓋を開けるとフォークが入っているが、ぼくは日本から持参した割り箸で喰うことにした。箸以外の食器を使っても喰った気がしないからだ。
これを少しずつ、少しずつ食べた。
やわらかくなった麺を慎重に咀嚼してから嚥下する。そうしないと胃が暴動を起こすのではないかと不安だった。しかし、思いのほか喉の通りがよく、温かいつゆを飲むと緊張は更に緩んだ。「旨い」と思えた。
時間を掛けてカップラーメン1個を食べ終えて、またソファに沈んだまま音楽を聴いた。ひどく心地よい。音楽を聴くことで静かな昂揚があった。
生きている。生きてゆける。生きていてよかった。
心の底からそう思った。たった4日前に身体を切り開いて内臓を抜き出して、それでもおれは自力で移動できるようになっているし喰うこともできるようになったし、じっとしているなら痛みもないし、これからきっともっと元気になる。いい部屋に入れて貰ってこんなにゆったりした穏やかな気持ちでいられる。まったく以て倖せだ。こんな倖せはほかにない。
誰かに伝えたかった。誰かと話したかった。このよろこびを、早く、誰かに。
じっとしていられなくなって、ぼくは1階のロビーに降りた。
ホテルのロビーにはインターネットに接続できるパソコンが2台、設置されている。ホテルのものは使用料が高額だから街へ出てインターネットカフェを利用するのがよいということは知ってはいたが、そんなことは構わなかった。ぼくはフロントの女性に話し掛けた。
「Excuse me, can I use that computer ?」
「Ok, you can. roomnumber ?」
「811」
「811ノノok, please」
日本語を使うように、言葉が通じた。何だ、おれは話せるんじゃないか。またうれしくなる。
ホテルのパソコン使用料は、最初の15分間が45バーツ、それを越えると15分ごとに3バーツ。街のインターネットカフェの相場は1分間につき1〜5バーツ。やはりホテルは割高だ。
しかもホテルのパソコンは日本語表示ソフトが入っていなくて、日本でいつも閲覧しているサイトは何処も文字化けして、何が書かれているのか判らない。
明日は街へ出掛けてインターネットカフェに入ろう、と思う。それでも40分ほどネット上を徘徊した。
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バンコク第1日
ぴっしりとしたシーツが張られたダブルベッドで6時間眠って、眼が覚めた。シーツの肌ざわりが心地よく、とても贅沢な気分だ。
部屋のカードキーと一緒に、朝食チケットを貰っている。午前6時〜午前10時の間ならいつでもホテルのキッチン(小規模なレストラン)で朝食を摂れる。
ホテルのキッチンは別棟にある。玄関に立っているガードマンにチケットを見せて何処に行けばよいのか訊ねると、愛想のよい笑顔で敷地内のキッチンまで連れて行ってくれた。
客商売なのだから愛想がよくて当たり前だと思ってはいけない。客相手ならいつでもにっこり慇懃というのは日本人だけだ。それを思えば、このガードマン氏はとてもいい人なのだ。
キッチンの入口でホテルの制服を着けた男性にチケットを見せると席に案内してくれて、椅子も引いてくれる。「Coffee or tea ?」と訊かれたので「Coffee」と答える。そうすると温かいコーヒーが運ばれてくる。飲み放題。ほしければ何杯でも飲んでいい……らしい。
ぐるりと見まわしてみると、どうやらバイキング形式のようだ。自分が食べたいものを食べたいだけ自分で取っていいとのこと。
この朝食が、劇的に旨い。
何の変哲もないアメリカンモーニング。日本のビジネスホテルでも食べられるものばかりだ。しかし唸るほど旨かった。特にベーコンが美味で、ぼくは皿に山盛り2杯も喰った。「肉を喰っている」実感が快感ですらあった。
パンとベーコンとフライドポテトを、ぼくはがっついて腹一杯に喰った。ナイフとフォークが焦れったかったけれどがつがつ喰った。
先程も述べたように、特別なものはこのキッチンにはない。これほど旨いと感じたのは、やはり病院食のせいなのだ。後にミドリさんから聞いた話によると、日本から手術のためにヤンヒー病院に入院した者はみな食事が摂れなくなって痩せて帰国するらしい。「病院の食事は不味いよ」ときっぱり言っていた。ぼくも帰国してから計量してみたら、渡航前と比べて3kg落ちていた。
ありふれたメニューで毎日同じものが並んでいるから、1週間後にはぼくもこの朝食には飽きてしまった。でも毎日欠かさずここで朝食を摂った。
旨いものを喰うと気持ちが落ち着くだけでなく、元気が出てくる。病院にいるときは「退院したらホテルにこもっていよう」と考えていたけれど、朝食を終えて部屋に戻ったぼくは帰国までにいろいろな場所に行ってみたくなり、持参したバンコク市内のガイドブックの頁を繰った。まだ速くは歩けないけれど、ゆっくりなら長時間でも歩けそうだ。3日後の通院日を除けば帰国までの間は何をしてもいい自由時間だ。少しずつ動きまわろう。
ホテルを出て直ぐの道、ソイ・サラデーン1通りを東へ向かう。舗道をゆっくり、ゆっくりと歩いた。舗道のブロックがところどころ崩れていて、その段差が腹の術創に響く。車道と歩道との段差も日本よりも高くて、よいしょと足を上げなければならない。その足を上げる動作が腹筋を力ませるので、まだ少し怖い。だからゆっくり進む。
道沿いには屋台が点在している。主に食べもの。御菓子を売っている人も、総菜を売っている人もいる。どれも旨そうだ。もう少し身体が回復したら試してみようと思う。
走っている自動車は軒並み日本車。そうでもなければ日本でも見掛ける高級外車。二輪車も日本製がほとんど。街並みも細かい部分を見なければ日本と変わらない。掲げられている看板や表札に書かれた文字がタイ文字というだけだ。
タイは熱帯なので暑いと思われているが、ぼくが滞在した9月上旬はそれほど暑くはなかった。平均気温は31度。気温は高いが湿度が低く、同じ気温でも日本のように身体に重い暑さは感じられない。暑いから汗はかくが身体の内側にこもるような暑さはなく、風が乾いていてさわやかだから日向に長時間いるようなことがなければ、倒れそうになることもなさそうだ。ぼくは大丈夫だった。
ラーマ4世通りを1kmほど西に向いて歩くとシーロム駅に着く。シーロムは地下鉄の駅。シーロム駅の前には大きな交差点がある。その交差点を南西に向かうとそこがシーロム通り。この通りはサラデーン駅というBTS(高架鉄道。別名スカイトレイン)の駅もある繁華街で、デパートやファストフード店、マッサージ店、インターネットカフェなどなどの店が並んでいる。
ゆるゆると歩いて1時間。昨日まで寝込んでいた身体は流石に疲れた。シーロム通りのインターネットカフェに入って少し休む。
これだけで疲れてしまったので、同じ道を辿ってホテルに帰る。でこぼこした舗道をひやひやしながらそっとゆっくり歩いて、ホテル直近のコンビニエンスストアに立ち寄って食事を仕入れる。昨日立ち寄ったのも同じ店で、この辺りの匂いにむせそうだったのだが、今日は平気。屋台のカイヤーン(鶏のあぶり焼き)も旨そうに見える。早速買ってみる。
鶏のいわゆる「サイ」の部分を骨ごとタイ独特の香辛料であぶり焼きにしてある。買うとその場で骨ごと一ト口大にぶった切って玉ねぎと大蒜をカリカリに炒めたものをトッピングして紙で包んでくれる。36バーツ。
濃い味がついているから酒や飯と一緒に喰うと旨いのだと思う。独特の匂いと味の香辛料だけれど、この匂いと味は日本でも充分に受け容れられると思った。肉の塊を喰うと元気になったような気になれる。
ホテルに帰って真っ先にこれを喰って、これだけで満腹になる。
一服してから、退院際に貰ったヤンヒー病院のアンケートに回答することにする。ヤンヒー病院で手術を受けてどんな感想を持ったか、というやつ。看護師に話を聞いて貰えなくなって不安を募らせ最後には発作を起こし掛けるところまで追い詰められたぼくは、それを切々と訴えてみようと思った。日本語で書くなら、大抵のことはずばり伝えきってみせる。これでもぼくはもの書きだ。
3時間ほど掛かって下書きして、2時間ほど清書に掛けて、書き上げた。書くだけ書いたら、気が済んでしまった。思うことを思うさま書ききったので不満も解消されてしまう。アンケート用紙に細かい字でびっしりと書いたけれど、病院側に渡さなくてもいいや、という気になった。
着ているものを洗濯して、風呂に入って、ニュースを見て。よい1日だったと思う。
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バンコク第2日
朝から実にいい天気だ。そう言えば今日は土曜日、週末が好天でタイの人もよい休日が過ごせるだろう。寝起きのぼんやりした頭でそんなことを考えながらベッドの中でぐずぐずしていた。
ホテルの部屋には毎日ルームメイキングの人がやってきて掃除をして、ベッドを整えて、使用済みのタオルを引き揚げて清潔なタオルを置いていってくれる。自分で掃除しなくていいなんて、御大名の生活だ。朝だってこの肌ざわりのいいシーツの中で思う存分ごろごろして、気が向いたらキッチンへ行って好きなだけ飯を喰えるのだ。……こんなに倖せでいいんだろうか、と少し不安になる。
朝食後は部屋でソファに寝転がってガイドブックを見る。「ウィークエンドマーケット」の頁を開いて今日が土曜日だと思い出す。ぼくの滞在期間唯一の土曜日。今日と明日を逃がしたら、土日にだけ開かれるという巨大市場に行く機会がなくなってしまう。列車に乗らないと行けない距離だけど、挑戦してみよう。
昨日出掛けたときとは逆方向、ホテルを出て西に向かって歩いてみる。地図の上で見ると、こちらの道を歩いた方がシーロム通りまで近いようだ。ソイ・サラデーン1通りからサラデーン通りに出て、突き当たりがシーロム通り。サラデーン通りにも食べものの屋台が沢山並んでいる。
シーロム通りのサラデーン駅からBTSに乗ってモーチット駅で降りれば、ウィークエンドマーケットは直ぐそこだ。
BTSは高架鉄道、高いところを走っている。高速道路の更に上だ。1999年開通、まだ車両も駅もきれいだ。車窓からの眺めもよいし、バンコクの中心地の移動にはとても便利。
切符は自動販売機で買えるが、10バーツ硬貨と5バーツ硬貨の2種類しか使えない。切符を買うときはお金を入れる前にボタンを押すシステムなので注意。
硬貨がない場合は駅の窓口で両替して貰える。「Exchange, please」と言って紙幣を渡せば適当に崩して返してくれる。
プラットホーム上に時刻表らしきものは見当たらないが5〜10分も待てば列車は来る。路線さえ間違えずに乗れば目的地まで運んでくれる。
車内は日本の電車よりも広くて、車両の真ん中にも手摺りが付いている。座席は硬いベンチのような感じ。タイの人も、外国から来た観光客も、沢山の人が利用している。
ウィークエンドマーケットに行こうという人は大勢いて、最寄りのモーチット駅で車両内の人はほとんどが降りてしまった。モーチット駅から歩いて5〜10分くらいの場所に巨大な市場が開かれている。
市場は広大で、ほんとうにさまざまなものが売られている。食べものの屋台は勿論出ているし、衣料品、工芸品、玩具、装飾品、家具、などなど……生きた仔犬まで売られている。見てまわるだけでも1日がつぶれてしまいそうだ。市場が開かれる敷地があまりに広いので敷地内移動のためのカートが走っている。自転車程度の速度だからそれほど危険ではないが、一般道路と同様、歩行者がいても突っ込んでくる。
ぐるぐる歩きまわって一ト通りを見てまわったけれど、確かに何もかもが安くてお買い得なのだろうけれど、ぼくは特にほしいものがなかったのでぼくは買いものはしなかった。荷物を重くしてしまうと帰国の際に持ち上げるときに術創に響くのではないかという不安も、なかった訳ではない。
しかしこれだけは買った。みかんジュース。
ガイドブックにも写真が載っていて、一度は飲んでみたかった。みかんを搾ってそのままペットボトルに詰めてある。1本20バーツ。
日本で飲める、いわゆる「オレンジジュース」とはまったく味が違う。柑橘類特有の苦いような酸味がまったくない。炬燵で食べる温州みかんの、たまに出会うとびきり甘いやつを集めて搾って、そのまま飲んだような、さわやかな甘さ。
もしもこの記事をお読みのあなたがタイへ行くことがあったら、ぜひ試してみてほしい。
まる1日歩きまわって、日暮れにホテルに戻る。日に日に歩くのが楽になってくる。夕食はホテル直近のコンビニエンスストアの前でカイヤーンと白飯を買って喰う。タイの白飯は炊いてあるのではなく、蒸してある。日本のおこわと同じもちもちした食感。匂いが少しあるけれど、旨い。
さわやかに晴れた空の下をゆるやかに歩き、はじめてのものたちに出会い、旨い飯を喰う。充実した1日だった。
夜は昨日と同じようにCDを聴く。帰国して直ぐにこのアーティストのライヴに行く予定になっているからその予習もしておかなければならない。聴いているとテンションが上がってきて自然に身体が動きはじめる。動くとまだ術創が痛むから抑えないといけない。
動く代わりに声を出して歌った。広い部屋に自分ひとりだけだとこういうこともできる。他人さまと一緒にいるときにはとてもではないができない。あまりに気の毒で。
だってぼくの歌声はジャイアンよりも「ホゲー」だから。
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バンコク第3日
そろそろ土産ものを揃えておいた方がよいか、と目覚め際に考える。タニヤ通りのデパートに手頃な店があるとガイドブックに書いてあるのを見た。行ってみようと思う。
しかし少し頚部が重怠い。持病が出てきたか。だが、ひどくなっても服む薬は手許にない。
ひどくなったときのことはひどくなってから考えよう。
起き出してキッチンへ向かう。ベッドの枕許にはいつものように20バーツをチップとして置く。
喰うものを喰うと出るものが出る。
排尿は普通にできるようになった。少し前まではそうっと解放していたが、もうその必要もない。しかし排便はまだ怖い。それがぼくの身体は判っているのか、やや軟便の状態が続いている。軟便なら力まなくても出せる。
まだ頚部の怠さを感じながらも昼前からタニヤ通りへ向かう。タニヤ通りはサラデーン通りからシーロム通りを横切った先にある。
タニヤ通りにはタニヤプラザというデパートがあって、そこの2階に「タムナン・ミンムアン」という籐や竹で編んだ籠を売る店がある。そこで家族や友人向けの土産を小一時間掛けて択んで買った。静かな店だった。
さて、買いものもしたしちょっと調子が思わしくないし、昼食を買って直ぐに帰ろうとタニヤプラザを出て、通りを見渡した。妙な郷愁のようなものを感じる。
タニヤ通りに並ぶ店の看板は、何れも日本語が書いてある。日本語がない看板の方が少ない。探さないといけないくらいだ。
……ここは、バンコクか? ほんとうに外国か? もしかしたら東京か何処かじゃないのか? 何だか騙されているような錯覚も覚えた。
とにかく、日本語はタイでは「恰好いい外国語」ということになっているらしくて頻繁に使われているが、その意味なんて深くは捉えられてはいないのかもしれない。コンビニエンスストアでは「もし」というお茶が売られている。もしかすると「hello」くらいの意味合いで使われているのかもしれない。……「if」ではないだろう。多分。
「緑茶」と書かれた札が首から下がっているお茶も売られている。ボトルの色ではなく、お茶の色が赤い。その赤さは紅茶どころではない。アセロラジュースのような赤さだ。
緑茶に赤い色を着けて「緑茶」という札を付けてノノそれでいいのかタイの人。
ちょっとめずらしいタイの食べものを昼食と夕食に買ってからホテルに戻ろうと予定していたが、頚部の怠さがほんとうにひどくなってきたので、ファストフードで茶を濁すことにする。
日本のファストフード店のほとんどは接客カウンタにメニューが置いてあって、「これとこれとこれ」と指差して注文することができる。タイでもきっと同じだろうと思って入ったのだが、カウンタにメニューがない。天井近くに掲げられたメニューは日本と同様にある。それを見て注文することになる。
掲げられたメニューには番号がふってある。その番号を言えば品名を言わなくても注文できる。品名がタイ語でしか書かれていないからこれは助かる。
ホテルに戻って食事と入浴と洗濯を済ませた後はぐったり。
疲れが出てきたのか持病のせいなのかは判らないが少ししんどいように感じる。おとなしく横になっておく。暫くした頃にミドリさんから電話が入って、明日病院へ行く時間を教えて貰う。午前9時半にロビーで待機。迎えに来てくれるとのこと。
横になってぼんやりしていると身体がむずむずしてくる。深奥が疼くような血流がはげしくなってきたようなノノこれは、あれだ。余程回復が顕著で生命力が強く働いているのだろう。食欲も出てきたし睡眠欲もなくなることはなく、三大欲求の何れもが明らかになってきた。
つまり性欲が戻ってきたのである。亢進したと言うべきか。しかし身体を自由に動かせる訳でもなく相手がいる訳でもなく、解消の手立てはない。巧く昇華させるしかないのだが……頭の中が思春期の少年のそれと同じ状態になってしまって、苛立ちが募る。
唸りながら枕を拳骨で殴って、気を紛らわせてから無理矢理眠った。
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バンコク第4日(抜糸)
ホテルの朝食を摂って、少しくつろいでから病院へ。バンコク到着の日に迎えに来てくれたヌーさんが自動車を運転、入院日から面倒を見てくれているミドリさんが同行してくれる。行くのはぼくひとり。
受付にはミドリさんが連れて行ってくれて、タイ語が必要な手続きはすべてやってくれる。血圧と体重を測って待合ロビーで待つ。程なく処置室に通される。
処置用のベッドに下半身裸になって寝るように指示される。そのようにすると看護師が下腹だけが出るようにタオルを掛けてくれた。粘着シートとその下のガーゼを外して、アルコールで術創を拭ってくれる。その状態で待つ。
待つ。
待つ。
待つ。
腹出したまま待つ。傷出したまま待つ。ひとりで待つ。もしかして忘れられていませんかと思っても待つ。医者が来ないだけでなく看護師も何処かへ行ってしまっている。
20〜30分は待ったのではないだろうか。やっと医師がやってきて術創を診る。2〜3度指先でぼくの下腹を押して、傷の端っこの縫合糸を引っぱり抜いた。
「傷は大丈夫。少し内出血があるが放っておいても平気。ガーゼももう必要ない。シャワーを浴びてもよい」
何か質問は、と訊かれたが、特にないですと答えてしまった。診察はこれでお終い。ぼくが帰国のための飛行機に乗るのは4日後。それまでにもう1回くらいは術創を診てくれるのかと思ったが、「もう通院しなくてよい」とのこと。

これが抜糸直後の状態。医師が言っていた内出血が向かって左側に少しある。
ヤンヒー病院では、腹を横に切って、その左右の端を一ト針だけ縫って、それ以外の場所は医療用の糊でくっつけるらしい。だから抜糸も長々と痛い思いをしなくていい。
ぼくの診察は直ぐに終わってしまったが、この日退院してぼくが泊まっているのと同じホテルへ行く人もいるとのことで、同じ自動車で移動するために退院手続きが終わるのを待つ。2時間くらい待っただろうか。待つ間にロビーで在タイ日本人向けの新聞を読んだ。
タイでは煎餅菓子が売られていて、これまで「おせん」と「新米」の2銘柄が市場で競り合っていたのだが、新しく「どーも」という名の煎餅が売り出されて市場の動向が注目される、という記事が載っていた。タイでは日本及び日本のものが大人気のようだ。至るところで日本語を見掛けるし、「煎餅」なんて御菓子が日本語の商品名で売られていたりもする。
ぼくと一緒に自動車に乗ってホテルに向かうのはMTFさんだった。術後間もなくで幾らかつらそうな様子だったが、足許はミュール。身体だけでなく顎骨の手術も受けたそうで腫れた顔を見られたくないらしく、目深に帽子を被っていた。身体がつらいのだろうに、それでも女性は装いを忘れないのだなと感心。
ぼくは自動車の揺れも平気になっていたが、彼女はきっとホテルに着くまでの1時間弱が怖かったに違いない。
自動車の中でミドリさんが術後の注意をくれた。
術後1箇月までは重いものを持たないように。寝た状態から起き上がるときは真正面を向いて起き上がるのではなく、一旦横臥位になってからゆっくり起き上がるように。膣口から手術の廃液などが出る場合があるが、それは普通に起こり得ることなので心配は要らない。はげしい運動は2箇月経過してから。それまでは駆け足やジャンプは駄目。
……帰国翌々日にライヴに参加するなどとは口に出せなかった。きっとぴょんぴょん飛び跳ねるだろう。
ホテルに着いたら午後3時に近い時間だった。昼飯を喰うには遅いが夕食には早過ぎるという半端な時間。だが、腹が減っている。食事を摂って、それからベッドに横になった。待つだけでも疲れていたのか、少しうとうとと眠った。
眼が覚めてから風呂に入って洗濯もした。その後は何をする気にもなれずぼんやりして過ごした。疲れが身体の奥に蓄積しているようだ。明日は1日出掛けずによく休もうと思う。
日没してからは昨日と同様に身体の欲がぼくを苛立たせる。こんなになるほどおれは元気になってきているんだ。それはよろこぶべきことなのだろうけれど、たったいまは困っている。
少しでも発散させようと持参しているMP3プレイヤで音楽を聴きながらそれに合わせて大きな声を出して歌ってみた。しかし儘ならない。
畜生と呟きながら昨日と同じように枕を拳骨で殴って、気を紛らわせてから無理矢理眠る。
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バンコク第5日
疲れがたまってきているのか、寝覚めがよくない。身体が怠いから「伸び」をしたいが、術創が開きそうだし痛みもあるので、できない。
少しでもすっきりさせようと風呂に入ってから食事に行く。食事が終わった後は部屋に戻ってベッドの上でごろごろしていた。
昨夜のことに、明日は1日何処へも出掛けずに休んでおこうと思っていたからそのようにしようと横になっていたのだが、出掛けないと昼食も夕食も手に入らない。
過日から続く目眩も気になってはいるが、危なくなったら直ぐに帰ってくるつもりで、外出することにした。
いつもの通りにシーロム通りへ。そう言えばぼくはずっとフットマッサージをして貰おうと思っていたのだった。タイ式のマッサージの店は、シーロム通りにも沢山ある。
いままでは、マッサージをして貰うと経絡(いわゆるツボ)にも刺激が行って痛みも感じるだろうし、そうすると身体の思わぬ部分にも力が入ってしまって術創に影響するんじゃないかと怖くて、「やっぱりやめておこう」と思っていた。しかし、それほど術創の具合いもひどくはなくなってきたし、1回くらいは経験しておきたいし、マッサージして貰えば身体の怠さも取れるかもしれないと、入りやすそうなマッサージ店を探した。
いつも歩く南側の歩道にはマッサージ店はないことが判っているので、今日は北側に渡って探してみる。確かあったはずだ。見た憶えがある。
探しながら歩いていると頚部の怠さが重さに変わってきて、そろそろ目眩がはじまる。まだ滞在期間は残っているからマッサージは今日でなくてもいいだろう。そう思って道を引き返しはじめた。そこに小柄な男がやってきて、ぼくに話し掛けてきた。タイの人なのだろうが、言葉は英語だ。
「よう大将、いい子がいるよ」
口髭を生やした浅黒い肌の男が、背景に赤色や紫色の派手な色が入った、女性が大勢映った写真をぼくに見せながら、耳許に囁きかけるように言う。
「ほら、よりどりみどりだ。どの子もかわいくて、身体と身体で通じ合えるよ。顔を見るだけでもいいから寄っていきなよ」
こういう客引きがいるのだとぼくは予め聞いていたし目眩がはじまっていてしんどかったので、素っ気なく断った。
「要らないよ」
だけど客引きの男は直ぐには引き下がらない。
「女の子は要らない? 男の子がいいか。男の子もいるよ」
「……要らない」
髭の男は100mほどの距離をぼくと一緒に歩いて、ずっとぼくの耳許で喋った。観光客だけを狙ってこういう商売をしているんだろう。特に日本人は格好の標的なんだろう。こういうのを目的にこの国を訪れる輩もいるようだから。
それにしても、ゲイの人も視野にきちんと入っているところがタイの人は偉いと思った。同性愛者、両性愛者、性転換者、その何れもがこの国では「そうでない人たち」の中に馴染んで生活していて、めずらしがられることすらないのだと言う。ぼく等みたいなのには住みやすいのかもしれない。
ホテルに戻って直ぐに食事を摂る。屋台で買った焼鶏とサラデーン駅構内の店で買ったカルツォーネをひとつ。それで腹が一杯になる。
外は今日も晴れでそれなりに暑く、その中を2時間ほど歩きまわって汗をかいたし、風呂に入ろうと思うが、それだけの元気が身体の中にない。タオルを絞って清拭にとどめておく。着ていたシャツと下着の洗濯はした。
腹を切る人は綿100%の、やわらかい生地でできたパンツを持って行った方がよい。硬いごわごわした手触りの生地でできたものも中にはあるが、そういうパンツを履くと抜糸してガーゼを外した後の術創が生地に摩擦されて、ちょっと怖い思いをする。
食後はリビングのソファでぼんやりしておく。日没頃に外線電話が掛かってきて、今日退院のFTMくんと滞在中のMTFさん、そしてミドリさんの3人でパッポン通りへ出掛けるのだが一緒にどうかと誘われる。昼に出掛けたときは目眩がひどかったしこれから出掛けて同じことが起きないとも限らない。それにパッポン通りと言えば酒を飲ませる店が沢山ある繁華街で、ぼくはまったく酒が飲めない。一緒に行っては却って迷惑だろうと丁寧にお断りさせて頂く。
その後もぼんやりしていたら、短い時間だが眠ってしまっていた。気持ちよかった。続きはベッドで眠ることにする。
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バンコク第6日
ホテルでの生活にも慣れてしまって、マンネリ化を感じはじめる。目覚める時間も、目覚めた後にホテルのキッチンで摂る朝食のメニューも、朝食を摂った後にシーロム通りへ出掛けて帰宅後に食事と入浴をすることも、毎日ほとんど同じだ。
考えられる選択肢はふたつ。
滞在期間も今日と明日のみで明後日には飛行機に乗って帰国するのだし、惰性であと2日を過ごすか、何らかの手段で無理矢理にでも日程に変化をつけて残り2日に大波乱を起こすか。
ものぐさなぼくは前者を択んだ。
しかし、朝食を摂りにキッチンへ出掛けたときに、その気分が少し変わる。外は雨が降っていた。ぼくがバンコクに来てからはじめての本格的な雨。傘が要るほどの。その少し湿った空気に触れると、ちょっと出掛けてみようかという気になった。湿り具合いが日本の空気に似ていたからだろうか。
BTSに乗ってサイアム駅に行ってみよう。ここでフットマッサージ店を見掛けたらマッサージして貰おう。そう思った。
ぼくが出掛ける時間には雨が更にひどくなって、ぼくはやっと傘をさす機会に巡り会った。傘をさして歩くのも、たまには悪くない。湿った風が緩く吹いているサラデーン通りは見事に冠水していた。
日本よりも段差の高い歩道まで水が上がってきている。段差と段差の間(歩道が途切れた部分)は勿論水浸しなのだけれど、タイの人は男性はサンダルで女性はミュールで、その水の中を割りと平気な顔でざぶざぶ歩いていた。
着いたサイアム駅はサラデーンの2駅先。BTS路線の乗り換え駅でもあり、「siam」以外に「central station」とも呼ばれる。この駅の周辺「サイアムスクエア」は観光客だけでなく、タイの若者たち、特に学生が集まる街だ。学生服の少年少女が沢山歩いている。
ここでマッサージを……と思っていたが歩いているうちにまたもや目眩がはじまったので諦めて、さっさと帰ることにする。サイアム駅に引き返して、構内を横切ってプラットホームへ向かっている途中で、懐かしいようなめずらしいようなものを見つけた。
鮨。おにぎり。
「OISHI」という日本食レストランの出張店舗があった。スーパーマーケットでよく見掛ける、1カンずつが透明のセロハンで包装されていて好きなネタを自分でパック詰めする握り鮨を売る店があった。おにぎりもある。そろそろジャポニカ米が恋しくなってきていたぼくは迷わずそれを買ってからBTSに乗った。
ホテルに戻って久々に喰った鮨は、ジャポニカ米の懐かしさも手伝って、旨かった。イカとエビと鮭と鯖。箸を付けてくれるが割り箸ではなく竹の箸。練りわさびと醤油もくれる。わさびは日本の練りわさびよりもつんとする。かなりきつい。日本の練りわさびと同じつもりでつけたぼくはむせながら涙を流す破目になった。
鮨を喰ってからはリビングでCDを聴いていた。ジャポニカ米に満足したのか、疲れ気味だった気分が昂揚してくる。
音楽を聴いてリラックスして、早めに床に就いた。比較的早く眠れた。
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バンコク第7日
昼近くまで何をするでもなく横になっていた。そこに電話が掛かってくる。先日パッポン通りへ行こうと誘ってくれたFTMのMくんだ。「御話させてください」とのこと。「いまからどうぞ」と答えてベッドルームからリビングに出る。
Mくんは乳房切除と内性器摘出を一度に済ませて2日前に退院した23歳。入院していた日々の大変さを話して笑い合った。同じ、或るいは似た経験を持つと連帯感と言うか、強い共感と結びつきを持つことができるものだ。
手術のための麻酔が思いのほかしっかり効いたこと、身体にチューブが通っている不思議な感じ、術後はじめて歩いたときの不安、食事がまずくて喉を通らなかったこと……既に思い出になりつつあった。
Mくんが「やっぱり外に歩きに行った方がいいですよね」と訊ねたので、「つらくない程度に。ゆっくりとシーロム通りやルンピニー公園にでも散歩に出掛けてみるといい」と答えた。それから、ホテル周辺の道や屋台で買える食べものの話をする。
そう言えばそろそろ午だ。昼食を調達に行くのもいいだろう。「一緒に少し歩いてみるかい?」と訊いてみるとMくんは頷いた。ふたりで出掛ける。
退院したばかりのMくんに合わせて少しゆっくりめに歩こうか。そう思っていたが、その必要はなかった。彼は割合に速いペースで歩いた。術後10日が経つぼくよりも元気かもしれない。この回復の早さはやはり若さなのだろうか。
歩きながら気付いたことをぽつぽつと話した。途中で屋台のみかんジュースやカイヤーン(鶏のあぶり焼き)を買う。はじめての街での買いものにMくんは少し戸惑っていたけれど、明日か明後日にはきっと慣れてしまうのだろう。
1時間歩いてホテルに戻り、それぞれの部屋に別れた。
Mくんは見るものすべてに敏感に反応して、「すごい」、「きれいだ」、「旨そう」と素直に口に出した。気になるものを見つけては「あれ何ですか」と質問した。その反応のすべてがぼくには好ましく、また刺激となった。若くはつらつとして新鮮な反応を示す相手と同じ時間を過ごすのはやはり気分がいい。いい時間を貰った。
いい気分のまま買ってきたカイヤーンと白飯を喰って、CDを聴いて午後を過ごした。
陽が落ちるまでの間に、大阪のアクアビューティとミドリさんから、それぞれ電話があった。アクアビューティは「術後の経過はどうか」、「困ったことはないか」などサービスについてのケア、ミドリさんは明日帰国の飛行機に乗るために午前5時50分までにチェックアウトしてロビーで待っておくようにという指示。
午前5時50分にチェックアウトではキッチンの朝食は摂れない。先刻出掛けたときに立ち寄ったコンビニエンスストアで買った菓子パンと缶コーヒーを朝食にまわすことにする。
日没頃に再度Mくんがやってくる。明日帰国だと話してあったので、明日の朝食を一緒にどうかと誘ってくれたのだが、明日の朝は早いのだと答えたらとても残念がってくれた。
そこから話し込み、その中で彼は乳房切除術を受けることでほんとうに穏やかな気持ちになれたと話した。術後間もなくで不安も痛みもあるのだろうに、とてもゆったりとした表情で。いままで乳房があるばかりに薄着になったり風呂などで裸になったりするたびに苦い思いをしてきたから、なくなってほんとうにうれしい、と。彼は半年後には尿道延長術を受けにもう一度バンコクに来るとのだという。順調に運びますようにと願うとともに、ぼくは彼に言った。
手術費用を貯めるのにがつがつし過ぎると気持ちが荒んでしまうから、あまり切り詰め過ぎて余裕のない生活にならないように気を付けた方がいいよ、と。すると彼は、がつがつしてしまって「性格が変わった」と同居中の彼女に言われてしまったことがあり、それからは気を付けていると少し恥ずかしそうに答えた。手術を望む者は誰しも似た経験をするものなのだなと、ぼくは胸の奥で苦笑してしまう。
彼が早く気付いて、気付かせてくれる彼女がいて、ほんとうによかったと思う。あんなにぎすぎすした気持ちを経験するのは、短い期間で充分だ。
明日の朝が早いことに気を遣ってMくんは早めに引き揚げてくれた。彼がいなくなった後、荷物の整理をはじめる。
洗面台に置きっ放しにしていた洗顔料や歯磨きセットを忘れないようにしなければ。セーフティボックスに入れていた航空券やヤンヒー病院で貰った診断書も忘れないうちに鞄に詰める。明日着る洋服だけを残してすべて鞄の中にまとめた。
NHKの天気予報で明日のバンコクと日本の両方の天気を確認して、少し早めにベッドに潜り込む。どちらも晴れるらしい。
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帰国の日
早めに就寝したら早めに眼が覚めた。
手を付けないで置いておいた菓子パンを缶コーヒーで流し込んだ。タイの缶コーヒーは何種類かあるが、どれを択んでも甘い。甘いもの好きのぼくが飲んでも「甘い」と思う。ぼくが販売店で見た限り「ブラックコーヒー」はなかった。甘いコーヒーが苦手な人には気の毒だ。
準備をしていると、窓外の空が白々と明けてきた。
うつくしい夜明けが窓の外にある。思えば、夜明けがこんなにうつくしい街にいるのに、ぼくはこの街の夜明けをこれまで見ることがなかった。今日がはじめてだ。
夜明けは刻々とそのさまを移ろわせて、やがて朝になろうとしている。
夜が明けきる前に、ぼくは荷物をすべて抱えてロビーに降りた。日本から背負ってきた鞄は7.3kgと少々重量があって、手術直後はこれを再び背負って帰ることができるのだろうかと不安になったものだが、巧く回復したものだ。
空港までは、到着日に迎えに来てくれたヌーさんが送ってくれた。搭乗券を貰って荷物を全部預け、ドンムアン空港使用料を支払う。空港使用料は500バーツ。これを支払わなくてはならないので、前日までに手持ちの金銭をすべて日本円に両替してしまわないように注意が必要。
出国審査の手前でヌーさんと別れる。「御世話になりました」とは確かに言ったけれど、その一ト言だけでは伝えきれないほどの恩をぼくは受けてきたはずだ。それなのに充分なことを言えなかったことが少し悔やまれる。
出国審査は滞りなく済んで、免税店をうろうろと見てまわった。見るだけ見て何も買わない。街で必要なものは買っているし、わざわざ免税店の高価なものを買う必要もない。
だから手持ちのバーツをすべて円に換えてしまおうと空港の銀行窓口に行ったけれど、186バーツ(100バーツ札×1、50バーツ札×1、20バーツ札×1、10バーツ硬貨×1、1バーツ硬貨×6)だけバーツのまま返されてしまう。
搭乗ゲート前のロビーに行くと、ぼくと同じJL728便に乗ろうという人が集まってきていた。ほとんどが日本人。バンコクにいることを忘れるほどの日本語の会話が聞こえてくる。いよいよバンコクを離れるのだと実感が湧いてくる。
午前8時50分時搭乗、同9時30分時離陸。ぼくははじめて訪れた海外の国を離れた。
2回めのフライト。だが、前回のフライトはナイトフライトで窓外は真っ暗だった。今回は空の上が愉しめるだろうか。
機体が動きはじめて滑走路へ向かおうとするとき、窓の外を見た。機体の整備に関わったスタッフが一列横隊に並んで、こちらに向いて手を振ってくれている。こういう光景を見られるデイフライトはやっぱりいいなと思った。
機内食は鶏そぼろ御飯と白身魚のタイ料理が択べる。魚を択んだ。ぼくがはじめて食べた「まともなタイ料理」。
旨かった。デザートがとても甘いところもきちんとタイ風。バンコク滞在中に1回くらいはきちんとした料理店に入ってみるべきだったかと、このときになって思った。
機内食を終えるとあとは放っておいてくれるので、暫く窓の外を眺める。窓外はすっかり雲の上で、窓の下の方に雲海が広がっている。TVで見る「空の上」と同じだ。
雲はふわふわと波立って、そのさまは浪の花か、或るいは冬山の頂きのように見えた。どちらにせよ肌寒そうな風景だ。機内アナウンスでは地上37000フィート、外気温は零下50度よりも低い温度なのだと言っていた。華氏ではなく摂氏だ。寒いどころではない。
やがて機内の照明が消えて、周りの座席にいる人たちはみな毛布を被って眠りはじめた。日本まであと3時間ほど。ぼくもそうしようとバンコク行きの機内でしたように座席の肘掛けを上げて、身体を横にした。同じ列の席にすわる乗客はやはりなかったので、好き放題させて貰った。
眼を閉じていると浅くだけれど、幾らか眠れたようだ。もう直ぐ日本だ。思うとうれしさがこみ上げてくる。機内TVには航路と日本までの残りの距離が表示されている。残り距離の数字がじわじわと小さくなっていくのが余計にぼくをどきどきさせる。その数字を眺めながら窓の外も見た。少しずつ高度が下がってきて、雲が機体の上に、窓の下には海と陸とが見えるようになる。
午後4時45分着陸。夕刻の傾いた陽に照らされた関西国際空港にJL728便は降り立った。機体から降りたぼくが真っ先に口に出した言葉は「あっつー……」だった。渡航前よりも気温は下がってはいたけれど、日本はやはり蒸し暑かったのだ。
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帰国した後
渡航中の記事で何度か述べているが、ぼくは帰国の日の翌々日に或るアーティストのライヴに参加している。
術後1週間ほどの頃はライヴ会場に辿り着くのに精一杯で、開演中は総立ちが当たり前のそのアーティストのライヴでぼくは着席したままでいなければならないのではないかと思っていた。
しかし実際は、ごく当たり前のようにライヴに参加して、2時間の公演を立位で過ごした。多少は身体も動かした。 但し、渡航中に注意された通りジャンプはしないように気を付けたし足踏みも控えめにした。
帰宅後に術創が少し痛んだので無理をしてしまったかと思ったが、さしたる不都合は起きていない。
トイレに入るたびに怖々排出していたが、排尿は帰国の日までに普通にできるようになったし、排便も術後3週間程度で当たり前にできるようになった。通常便でも大丈夫。内臓を抜き取ることで腸が収まる空間が広くなったせいか調子がよく、帰国後は通じがすこぶるよい。
入院中からたびたび言われるが、やはり歩くのがよいのだろう。適度に食べて適度に歩くことは腸の働きを活発にする。便も体調にあった状態のものが出る。
食事量と食事内容、適度な運動で腸の調子を整えることが順調な、「怖くない」排便に繋がるのではないか、と思う。
術後3週間の術創の様子はこんな感じ。

すっかり塞がって、早くも部分的には消えようとしている。不摂生をせず、指示された通りにしていればこれくらいには回復する。
但し、身体の表面の傷はこのように治癒の具合いを眼で確認することができるが、身体の中の傷は見て確認できないので、思うよりも慎重に養生するべきだろう。
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